御由緒

 拝殿

現在、月瀬八幡宮の社殿が建つ所は、室町時代、「猫城」と呼ばれる小さな出城がありました。遠賀平野の田畑の中に丘陵(高さ20mの円錐状)の上に築かれた端城は、猫の姿にみえることから「猫城」と呼ばれていました。又一説には、かつて、この地で麻生氏と宗像氏の両軍がにらみ合い、合戦を繰り広げました。「敵が攻めてくるときは山が高くなり、城から攻め下りるときは山が低く感じるため、まるで猫が背を高くしたり低くしたりしている」と言われていたことから名付けられたともいわれています。
上境内からの景色黒田藩主別館
江戸時代になり、寛永15年(1638年)8月、筑前国2代藩主黒田忠之公が、底井野に別館(現在、底井野小学校のある所)を建てるに当たり、廃城となっておりました、猫城跡に先ず日頃崇敬するところの宇佐八幡宮の御分霊を祀ったのが月瀬八幡宮の始まりであります。

御社号は初め猫城八幡宮と称していましたが、後に宇佐八幡宮境内を流れる月瀬川にちなみ月瀬神社、その後 月瀬八幡宮と呼ばれるようになりました。

猫城について

下参道より上境内上境内から下参道
高さ20メートルほどの丘陵上に所在し、そこからは宗像・鞍手・遠賀が一望できる要衝の地であるため、15世紀中頃から遠賀郡周辺に勢力を強めていた麻生氏によって端城として築かれたとされています。端城とは、本拠地の城を守るため、見張り的な補助的役割を持った砦などのことです。実際に「猫城」は、天守閣や城壁となる石垣などは確認されていませんので、まさに陣屋のようなものが存在していたものと考えられます。

天正6年(1578年)、山鹿城主麻生元重と宗像大宮司氏貞は、遠賀と宗像を巡り幾度となく合戦を行いました。その戦の後、遠賀川の東を麻生領、西を宗像領となり、「猫城」は、麻生氏から宗像氏の所領となりました。宗像大宮司氏貞は家臣の吉田倫行と共に兵150余人を配属させております。その2年後の天正8年5月上旬、今度は豊後国の大友宗麟から命を受けた鷹取城主毛利鎮実が、兵数千人を引き連れ「猫城」を取り囲みます。吉田倫行以下少数の兵士は、これを守り、援軍を呼ぶため宗像に向けて狼煙(のろし)をあげます。この狼煙により援軍が宗像から駆けつけ城は守られたと言われております。

現在でもJR鹿児島本線の遠賀川駅のホームから、遠賀平野の先、「猫城」(現在の月瀬八幡宮の杜)を見ることができます。